ミャンマーに貢献する日本人、壮絶な過去を乗り越えて。

現代ビジネス

ミャンマーで命を救われた元日本兵「贖罪の30年」 かの地に貢献することを誓って

ミャンマーの人々に助けられ
「忘れもしません。昭和19年4月18日に、もともと私が所属していた中隊が全滅したんです。本当なら私も死んでいたはずだった。だから4月18日は私の命日で、4月19日は私の誕生日だと思い続けています」

埼玉県鶴ヶ島市に住む今泉清詞さん(95歳)は、’41年に召集されて中国に渡り、歩兵部隊に所属していた。だが、身体を壊してインパール作戦が開始する直前に部隊を離れ、連隊本部で事務を担当していた。これが運命の分かれ道だった。

インパール作戦は失敗し、日本軍はビルマ(現ミャンマー)に逃げ込んだ。

「ミャンマーの人たちは非常に親日的でした。家にかくまってくれる人やご飯を食べさせてくれる人もいました」(今泉さん・以下同)

ミャンマーの人々に助けられ、生き延びた今泉さんは’46年7月に復員。

移り住んだ鶴ヶ島市で荒地を開墾し、苦労の末に酪農で成功した。そのさなか、’74年にはミャンマーを訪れて、慰霊祭を行ったという。

「行く前は少し心配もありました。戦時中、日本軍はミャンマーで食料や家畜を徴発、田畑を踏み荒らして、現地の方を人夫として使った。

私たちの慰霊祭を快く思うはずがないんです。ところがいざ慰霊祭の開催場所に行ってみたら、黒山の人だかりができていました。なんとミャンマーの人たちが手を合わせて拝んでくれていたんです」

感極まった今泉さんは、ミャンマーの平和に貢献することを誓った。

酪農に続きゴルフ練習場経営にも成功して財産を築くと、約30年前に私費を投じて「今泉記念ビルマ奨学会」を設立した。

奨学会では来日しているミャンマー人留学生から毎年10人の奨学生を選び、1ヵ月4万円を2年間支給。これまで約180人が受給し、そのうち26人が博士号を取得した。

現在は元奨学生たちが、ミャンマーで奨学金制度を運営、今泉さんは資金提供を続けている。

「今でもかつての奨学生が自宅に訪ねてくることがあって、本当に子供みたいなものですね。だけど、別に私のことなんて忘れてくれてもいいんです。見返りはまったく期待していない。ただの恩返しですから」

今泉さんの活動がきっかけで、地元の鶴ヶ島市とミャンマーの交流は深まっていった。’20年の東京五輪では、ミャンマーの選手団は鶴ヶ島市で事前合宿を行う予定だ。

「19万人の戦友の遺骨がいまもミャンマーに残っていることが頭にあります。日本とミャンマーの仲が悪かったら彼らは安らかに眠れません。生きているうちは戦友やミャンマーの人たちが喜んでもらうためのお手伝いをしていきます」

今泉さんの恩返しはまだまだ続く。

この方が話されている

戦時中、日本軍はミャンマーで食料や家畜を徴発、田畑を踏み荒らして、現地の方を人夫として使った。

この部分について、もしかしたら

日本人の感覚ではこのように表現していますが

現地お人々にはそのように感じるほどではなかったのかもしれません

もしくは、そういったことは

全体では少数だったのかも・・・。

インパール作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に[3]日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、現在では史上最悪の作戦と呼ばれる。

当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

後は、イギリスの植民地時代が

かなり悲惨なものだったという可能性もありますね。

しかし、その後の支援の流れなどは

簡単には出来ません。

この方がとても素晴らしい方だからこそです。

日本人として誇りに思います。

皆の反応

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